夜、シネコンで映画『ロボジー』と『ヒミズ』を観た。
『ロボジー』は、矢口監督が「もしもロボットの中に人が入っていたら」という思いつきを映画にしたと語っていたが、
本当に思いつきを映画にしただけだったので驚いた。演技は概ね微妙だがヒロインがかわいかった。とにかく小さな話で物語のアウトラインからもっと工夫が欲しいと思う。例えば、それは冒頭開発者の3人が登場した場面のモタモタしたもっさり感から既ににじんでいた。ホントに監督どっか悪いんじゃないのか?
『ヒミズ』は、大震災後の日本を背景に「人間としてダメな大人である」両親を持つ中学生男女の物語なのだけど面白かった。が、登場する若者達がどいつもこいつもやたらと刃物で人を刺しそうなので、日本は大変なんだなぁ、と思った。日本の最近の物語世界は「成熟した子ども達が人間性の完成には程遠い問題のある親や大人、あるいは老人となんとか過ごす物語、少年少女の成長を描かなくなった」という傾向があるらしいのだが、この物語には、少年の心の成長や救いのある(ような)ラストだったのでよかった。が、もしもこの愛溢れる、いや溢れ過ぎてちょっとメンヘラというかヤンデレ的ヒロインの登場が無ければ、なんて呆れるほどノーフューチャーな物語。終わりなき日常が大震災によって断絶したとしてもやっぱり悪夢よりヒドい日常が終わりなく続く。現実にはそっちのほうなんだなぁ、と思うと日本は大変なんだなぁ、とまたも思った。もうちょっとさらっと、もうちょっと短ければ、親とか学校とかいろいろなものが憎い憎いティーンズには観て欲しい映画かもしれない、あまりエロなシーンも無いし。なんにしても、作品に時代性をいくつもしかも力強く織り込むことにチャレンジしているのは評価すべきと思う。
また、最近の園子温映画のいろんな人物が出演してい楽しいが、窪塚洋介演じる泥棒も上手だった、「ロボジー」のヒロインもチョイ役で出ていた。手塚とおるもちょいと出ていて「あ、手塚とおる」とつぶやくと横の家人が、違う、と否定した。家人は何年たっても手塚とおると手塚眞を混同している、人はなかなか変わらないもですな。
(追記)話は変わって映画「ヒミズ」を見て思うのは、評価が高い去年公開のスタジオジブリの映画「コクリコ坂から」についてワタシが特に評価できないと感じる部分、『主人公らが前へ進もうと頑張ると「オーバーローダー的(超越権限者・支配者的)なものわかりのいい大人が登場して解決、しかも主人公以外に由来する背景もそれなりの要因」や「シビアな運命も実は勘違いだったと判明」など主人公の苦悩や頑張りと直接リンクしない問題の解決』のこと、『舞台の「海辺の町」と地続きの「その外側のスポイルされつつある日本」が描き分けられていない』こと、ってのはやっぱり惜しい点としてあるんじゃないかと。ただの苦労好きが評価されるってのもねぇ。
ところで、また、話はかわって。ジブリと言えば家人がニコニコ動画で探してきた岡田斗司夫の番組の中の発言にある「トトロの製作からカットされた短いシーン」という都市伝説?の話題が楽しかった。(詳細は
このへんのリンクから番組を視聴してください。)
「ロボジー」を観てから映画『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』の予告を観たら、ハリウッド映画の底ぢからを感じた。邦画、大方ダメだな、海猿予告とか、荒川アンダーグラウンド予告とか。
映画「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」予告
映画「ヒミズ」予告