ネット報道を見て唖然。
一瞬だけも、この数十年で、はたして日本の社会とか政府と企業連合とかは少しは進歩したのかと、疑わしい気持ちになった。
非常に信じられない神経。
この政務官のかたは水俣病の際の同様のパフォーマンスで多くの人を騙した過去をご存じないのか。
私は、正直、このパフォーマンスを過去に企業や行政、技術者が市政の人々を平気で偽ったり騙したり、裏切り、使い捨てようとしていたことと切り離してイメージすることができない。
政務官はそういう現代史の陰の部分が原発問題と重なることまで想像できないのだろうか。
その裏切りと罪の深さは、テレビでもやっていたし、有名なのだと思うのだけど。
(以前の石原都知事のパフォーマンスは、もともと飲用水のものだから、ちょっと違うように思っています。)
昔も今も、企業が社会的責任を果たせないのならば、退場すべきであろう。
社会的責務を果たすつもりがないなら、それは、ただの「悪の結社」でしかない。
ダムの水に毒を入れようとして、ヒーローに叩きのめされる、アレですよ。
コスプレ自警団が制裁に暗躍するようになっても困るのだけども、いや、ホント東電さんと政府はきちんと腹くくったほうがいいんじゃないでしょうか、
など思う秋の夜です。
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報道:
『園田政務官、福島第1原発の処理水を飲み干す「パフォーマンスではない!」』
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111031-00000570-san-soci
『内閣府の園田康博政務官は31日、政府・東京電力の統合対策室の合同会見で、福島第1原発5、6号機から出た低濃度汚染水を浄化した処理水について、「安全が確認されている」と述べ、報道陣の前で処理水をコップに入れて一気に飲み干した。(以下略)』
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参考
『あおば法律事務所「ノーモア ミナマタ サイクレーター[改訂版]」』
http://www.aoba-kumamoto.jp/nomore_minamata/mamechisiki/mame_saiku.html
『1958(昭和33)年9月、チッソが,アセトアルデヒド製造工程からの排水路を水俣湾側の百間排水口から、水俣川河口にある八幡プールを経て水俣川に排出するように排水路を変更した。すると水俣川河口付近で魚を捕って食べていた人の中に水俣病患者が発生し、その発生地域が不知火海一円に拡大した。このため通産省(当時)は,1959(昭和34)年10月21日、チッソに対し、水俣川への排水を中止し、浄化槽を設置するよう行政指導した。
チッソは、この通産省の指導を受け、八幡プールへの排水を停止するとともに、浄化槽として「サイクレーター」なるものを設置した。チッソは、
このサイクレーターによって工場廃水は人が飲んでも健康に影響はないほどに浄化されると大宣伝をした。チッソの吉岡社長(当時)は,熊本県知事らを招いたサイクレーターの披露会で、サイクレーターを通した廃水と称した水を飲んで見せた。しかし実際は、ただの水であり、サイクレーターを通した廃水などではなかった。チッソは、そこまでして世間を欺いて見せたのである。
そもそもこのサイクレーターという装置は、排水中のカーバイト残渣を取り出すだけのものであり、水中に溶けた有機水銀を除去する能力は全くなかった。それだけでなく、実は、アセトアルデヒド工場から排出される廃水は、このサイクレーターすら通されていなかったことが後に判明している。
つまりチッソは、行政指導に従った浄化槽を設置したというポーズを取り、その結果廃水はきれいになったと世間を欺いた上で、未処理のままの廃水を、依然と同様に、再び百間排水口から水俣湾に放流しつづけたのである。
ちなみに,この1959(昭和34)年10月には、チッソが独自に行っていたネコ実験において、アセトアルデヒド工場廃水を餌にかけて与えたネコ400号がネコ水俣病を発症しており、チッソは、水俣病の原因が自社のアセトアルデヒド製造工程からの廃水であることを知っていたのである。その上で、サイクレーターというごまかしを仕掛けてアセトアルデヒドの製造・増産を続け、住民の命や健康よりも、自社の利益追求を優先したのである。
ところで、通産省が浄化槽の設置をチッソに要請したのは、水俣病患者発生地域拡大の現状を問題視した厚生省(当時)からの要請がなされたからであった。ただ、その要請の真の意味は、公害被害の拡大防止ではなかった。この点について、水俣病第三次訴訟の中で、当時の厚生省の担当者であった実川渉証人は、次のように証言している。
この問答から明らかなのは、厚生省も水俣病の発生を防止しようというような観点から浄化槽設置を要請したのではなく、チッソの排水は浄化槽を通して流すようにしたから安全になった、というイメージを社会にアピールし、チッソ排水が水俣病の原因ではないかという社会的な不安の沈静化あるいは追及の矛先を逸らそうとしたということなのである。これは、国がチッソと一緒になって世間を欺き、原因を隠蔽あるいは原因究明を妨害しつつ、水俣病患者が次々と発生し、倒れて行くのを放置したことを意味する。
以上』
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『第3章 水俣病の原因究明及び発生源確定の過程(その2) -昭和 34(1959)年 7 月の熊本大学医学部研究班の有機水銀説発表から見舞金契約を経て、昭和 40(1965)年 5 月の新潟水俣病公式発表までの動き-』
http://www.nimd.go.jp/syakai/webversion/pdfversion/042063_3shou.pdf
(一部引用)
『イ.サイクレーター設置の社会的影響
同年 11月10日、秋山通産省軽工業局長は、チッソに対して排水処理施設の早期設置 と原因究明への協力を通知し、翌年 3 月完成予定だったサイクレーターは、着工からわ ずか 3 ヶ月後の昭和 34(1959)年 12 月 19 日に竣工した。
見舞金契約が調印される直前の同年 12月24日に盛大に行われた完工式では、福岡通 産局長や熊本県知事を招き、
吉岡喜一チッソ社長が「処理水」と称する水を飲んでみせ るというパフォーマンスまで演じ、サイクレーターの完成で排水処理は完璧なものにな ったと公言した。
ところが、昭和 35(1960)年初めに湯堂で新たな水俣病患者の発生が報告され、一部 の新聞にサイクレーターの効果に疑問が出された。すると、チッソは、入鹿山且朗教授 に、処理前の排水とサイクレーターで処理後の排水と書き分けられた試料を持ってきて、 水銀測定を依頼した。入鹿山教授は試料の確認をせずそれぞれの水銀量が 20ppm、0ppm であったと報告し、その後はサイクレーターの除去効果を信じて、後の論文でもサイク レーターの水銀除去効果を繰り返し述べた。
昭和 60(1985)年の関西訴訟(一審)の証人尋問で明らかになったことであるが、施 工した水処理会社の設計担当者井出哲夫氏によると、サイクレーターの一番の機能は濁 った排水を見た目に綺麗にすることであって、水銀の除去機能は要求されていなかった のである。そもそもチッソが要求した設計仕様は、リン酸、硫酸、重油ガス化、カーバ イト密閉炉 4 設備の排水を処理し、濁度 50 度以下、色度 50 度以下、pH 8~9 を保証する ものであり、アセトアルデヒドや塩化ビニールなど水銀を使う工程の排水を処理するこ とにはなっていなかった。結果的には、けん濁物質に吸着された一部の水銀は除去され たが、水に溶けたメチル水銀化合物などは除去する設計にはなっていなかった。
完工式でチッソ社長が「処理水」を飲んで見せたことを聞いた設計技術者は、あたか も飲み水を作るかのような錯覚を与えると思い苦々しく感じたという。
実際、チッソは、試運転中に水銀の溶けた排水をサイクレーターに流したところ、除 去効果の無いことがわかったので、アセトアルデヒド製造工程の排水は、八幡プールに 送り、サイクレーターには流さなかった。
しかし、サイクレーターの完成によって排水は安全になったというチッソの宣伝の影 響は大きく、市民はもちろん、研究者もマスコミもこれで水俣病の発生は終わったと思 いこんでしまった。寺本廣作熊本県知事も、手記の中で、「サイクレーターが動き始める ともう患者はでなくなると思った。...何年かのちになって、初めてサイクレーターが有 機水銀を取り除くことには何の役にも立たぬ装置であったことを知った。不明というの ほかはない。」と述懐している。
なお、昭和 35(1960)年2月16及び17日に、水俣病の調査のため再び水俣を訪れた カーランド博士は、NIH(米国・国立公衆衛生研究所)で行った追試の結果が熊本大学医 学部研究班の有機水銀説を支持するものであったと公表するとともに、チッソの浄化装 置にふれて、サイクレーターでは有毒物質は取り除かれないと指摘している。』